責任という言葉の重み

坐禅とは、座って精神を整えることである。

最近人に迷惑をかけることが多く、反省をする手段として坐禅にいきついたので、坐禅をしてみた。

とはいえ、ただ座り続けるのは苦痛だ。寝てしまう心配もある。何か考えるテーマが欲しい。…このようなことを考える時点で反省のかけらもないことが自分でもわかる。しかし、だからこその坐禅なのだ。

まず、何がいけなかったのか。そして同じ過ちを繰り返さないために必要な心構えはどう持つのか。反省とはこれに尽きる。

人生は反省の繰り返しだ。反省しなければ人は成長しない。過去に学び、未来に活かすものの考え方をしなければならない。

転じて、責任という言葉がある。責任とは、まさに過去におかした過ちを自ら受け止め、過ちが引き起こすであろう現在と未来の問題や損害を解決、補償する約束のことだと私は思う。

こう突き詰めると、責任なんて言葉は軽々しくつかっていい代物ではないことがよくわかる。政治家は軽々しくこの言葉を呪文のように口にするが、政治家が責任をとっているところなど見たことがない。辞職したり服役したりするのは、責任を取っているうちには入らない。ここまでやったんだからいい加減許してよね、という免罪符に過ぎないのではないか。

かく言う私も、責任をもって社会人をしているとはまだまだ言えないが、そう言えるように、反省を怠らないようにしないといけない。

責任とは、責任をとれる者だけがつかえる、厳しい言葉なのだ。

 

 

 

 



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