お盆休みと昔話

歴史とは、身も蓋もない言い方をすれば、昔話とその記録である。英語ではhistoryと記すわけだが、storyが語源と思われるのがまた興味深い。

ある事実を語るときには、その事実を実体験した上で、あらゆる制約から自由な立場で、正確な記憶によって語られる必要がある。

その基準で考えたとき、本当に信用できる歴史など、ほとんど皆無である。例えば有名な本能寺の変も、最近また新しい解釈がされている。

歴史上のヒーローが実は冷酷非情の策士で、悪役が実は悲劇のヒーローだった可能性は常にあるということだ。

歴史は勝者が「つくる」というように、ひとつの客観的事実だけを考えても、立場によって解釈は180度違う。いま認識している歴史のほとんどは、表と裏の両面から考える必要がある。

今日は終戦記念日ということに日本ではなっているが、世界的には終戦の日すら国によって違う。どの国が善で、どの国が悪だったのか?あのときどうすればよかったのか?たら、れば、そんな話を戦後生まれの人間たちで話し合うより、信用できる実体験者の、生の声を今のうちに聞いておくことが何より重要だ。

祖父は戦地に行き、生還した。祖母は空から的にされ、機銃の嵐から逃げた。父は家を焼かれ失った。彼等のうち一人でも生き延びることができなかったら、私はそもそも存在していないわけだ。

訳知り顔の、戦後生まれの知識人や学者がTVでどんな話をしたところで、彼等が我々子孫にむけて淡々と語るそれらの話は、リアリティの次元が違う。そこに損得や利害などが存在する余地は無い。

あと2〜30年もすればそういう生の話も記録の中でしか聞くことができなくなる。記録(=歴史)は改竄、編集によりいくらでも変わる可能性がある。

我々は我々の子孫に、先祖から語られた確かな話を語り継ぐべきだ。

日本のこの時期の休みは、そういう時期なのだと思う。

 

 

 



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